広報2月号 地域おこし協力隊トークセッション企画

おおたまいどばた会議 with 地域おこし協力隊

「大玉村が映し出す姿」 担当:小川               
                                  

広報の紙面に載せきることができなかった部分を含めた拡大版!

よりテーマを掘り下げた内容となっています。

全5回を通して移住者を中心に自身の活動や大玉村について対談していきます。その中で大玉村ってこんな一面があったのか、こんな活動や面白いことがあるのか、新しい発見をみなさんにお届け出来れば幸いです。


● 対談者

野内彦太郎さん
・1932年 大玉村生まれ
・農家の長男として農業に従事
・古民家ヒコハウスで演奏会を不定期的に開催
・藍を栽培し、藍染をする歓藍社で活動


● 簡単な内容

大玉村で生まれ育ち、今年の4月で92歳になる野内彦太郎さんは百姓の長男として農業を継ぐかたわら、水道工事や農業の共同化など地域でより良い生活ができるように努められてきました。

また、音楽の演奏会を開催したり、藍を育てる歓藍社の活動など村内外問わず、多くの方々と交流をしてきました。

今回はこれまでの活動をお聞きしていく中でこの5回に渡って行ってきたおおたまいどばた会議のテーマである「大玉村が映し出す姿」とはどんなものなのか考えていきます。

● 目次




―大玉村の風景の変化―


小川:今日は大玉村に長く住んでいる野内彦太郎さんと対談させていただきます。

大玉村に長く住まわれている野内さんから見て、大玉村の風景で変わったと思う部分はありますか?

野内さん:茅葺きの頃は山の上から見ても家が目立たなかった。
それからトタンが貼られ始めたらこんなに家があるんだなって思ったね。
さらに今はトタンや瓦がカラフルになって、かなり風景として見えるようになっている。

小川:それは面白い視点ですね。

野内さん:他に大きな違いは、田んぼの形。
基盤整備するまでは小さい田んぼがいっぱいあった。
今はみんな基盤整備したんだ。それが碁盤の目状に広がっている風景になった。これが風景として大きく変わったね。

道路でも大きな道路はなかったから、みんな細い道だったね。今は幅広い道路と通ってる。そういう風景も全然違うね。

小川:今は田んぼ通りを通っていると整備された田んぼがきれいに見えますが、昔はそうではなかったんですね。

野内さん:そう。ただ、山とかそういうものは変化はないんだけどね。





―水と向き合った青年期―


小川:生活面ももちろん変化していきますよね。

野内さん:生活面では古い話だけど、我々若い頃はもちろん水道はもちろんないし、みんなつるべ井戸だね。

終戦後になると、生活改善が盛んになって、特に女性の炊事場とかね。
今までのかまどが改良かまどになったりもしていたんだ。

小川:博物館などで見たことはありますが、実際に使っていた話を聞くのは初めてです。

野内さん:その後、水道も引かれるわけだけど、野内家の水道は名倉山の中腹から流れている水が引いているんだ。

小川:村の水道ではないと?

野内さん:村の水道も引いてはいるんだけど、昔名倉山の中腹に流れる水を引いてこようと挑戦したんだ。
試しに120メーターあるパイプを3管つないでその流れの上流から引っ張って、とにかく流してみたらうまくいったんだ。

この水を利用して経過した7軒に自分たちで水道工事して各台所にみんなつないだのがスタートだった。

小川:水道を自分たちで引いてしまうのは驚きですね。

野内さん:水は使い切れないくらい、大体1日20トンから出るんだよ。
必要な水の量を計算して、当然貯水槽を作ってね。だんだんそれを改良しながら、50年以上たった今でも使っているんだ。

そしてこの水がおいしいんだ。

小川:その水も健康の一つの要因ですかね。

野内さん:そうだと思うね。何も入ってない自然の水だからね。そして、他の地区の人たちも、死ぬ時は最後にこの水をしみじみ飲みたい。
そういう話してきたくらい。




―農業への夢―



野内さん:高校卒業すると、百姓の長男だから、百姓をやるようになった。

小川:農業をずっとやられてきたんですね。

野内さん:戦時中は軍隊に入るんだと思っていたが、終戦後は農業の夢が生まれた。

一番は基盤整備に興味があったんだ。高校を卒業して、農道が作り始まった。

ところが、その頃は道路で土地をつぶすのはもう大反対だった。
それでも俺ら若い世代にとってはやっぱり、背中で背負うというよりも、効率的労働を軽減するためには機械化が必要だった。

車が通れない道路ではダメだということで、集会所で話し合いをした。

小川:そうですよね。今でこそ、道路の理解はあっても当時理解してもらうことは大変ですよね。

野内さん:農業の跡継ぐ長男として、その非効率な土地を誰もやろうとする人はいないよ。是非農道を作ってくれと提案をして、実現したんだ。

そういうことはなぜやったかというと、俺の叔父がオーストラリアで大規模なサトウキビ栽培をやっていたんだ。
叔父からよく話を聞いていたから、そういうスケールの農業も当然、部分的でもやりたいという夢があった。
そう思って色んなことやりたい思いがあったね。
やっぱり農業というのは希望があったから。
どんな風にやったらいいかというふうに考えていた。

小川:他に当時大きく変化したことはありますか?

野内さん:個人では機械を買えなかったから、共同作業やったこともあったね。それも俺の一つの夢だったんだよ。

俺はその頃まだ31歳くらいだったかな。
一軒一軒やらないかって回ったんだ。
そして、なかなか個人では買えなかった機械をね、それでグループを作って共同で作業を始めた。
その頃の基盤整備もまだだったから、小さい田んぼは人の田んぼを通らないと通れない。

ところが、共同であれば、一気にできる。
その体制を作ろうってもう思案してそれが始まった。
10年間やったかなこれはもう楽しかった。トラクターも導入してね。
小姓内というのは段差が多くて、土手が高くて、条件はあまりよくないからね。

小川:そうやって農業の姿は変わっていったのですね。そうするとお米の収穫量も変わってきますよね。

野内さん:農協の役員にもなったから、その中で山形に何回も視察に行ってね。
俺らはそういうことで研究会を作って、当時3万5000俵を5万俵まで増やしたんだ。

今は残念ながら農業が難しくなっているけど、別な面からの考えが出てきてもいいなという感じはしてんだけどね。




―健康の秘訣 姿勢 ー


小川:いまおいくつでしょうか?

野内さん:現在91歳で、今年の4月に92歳になる。

小川:とてもそうは見えないです。その健康の秘訣って何かありますか?

野内さん:一つは姿勢を良くするようにしている。姿勢を良くすれば、体のバランスがいい。
そうすれば、1ヶ所に極端な負担がかからない。
そういうことは子供の頃が頭にあった。そういうことが習慣としていた。

小川:いつお会いしても姿勢いいですよね。

野内さん:一つは戦時中、軍人目標だったから、俺も兵隊になると考えていた。兵隊になるためには健全な体でなくてはいけない。

兵隊、軍人を召集するために宣伝的な映画が作られていて、一番影響を受けたのは小学校5年頃、すでに太平洋戦争に入っていたから、予科練が憧れの的だった。

そういうことで予科練の映画を見ると器械体操をやる。非常に姿勢が大事なんだよ。それをずっと見ていたから、自分の姿勢を正していた。そういう時代からも注意していたんだな。

小川:当時の軍国主義がそういった影響を及ぼしているのですね。驚きです。

野内さん:戦争が終わってからも、自分の姿勢についても注意していたんだ。自分の生活習慣だなと、それがプラスなってんじゃないかなと思ったよね。

うんと姿勢を悪くしていると、どうしてもが体のバランスが崩れるんだよ。変なところに負担がかかってるから、腰を痛めてしまったりとかね。

腰が痛いとますますは曲げちゃう。そういうのが不健康の始まりだと、私は考えているね。

小川:私も姿勢を良くしないとなと思いました。

ずっと猫背だったんで、陸上を始めてよく姿勢直せ直せって言われて、そこからちょっとずつ意識はしているんですけど、やっぱり気を抜くと猫背になるんです。

野内さん:自分の姿勢を矯正するのにはね、壁に寄り添って踵をピタっと壁につけて、お尻、肩、後頭部もつける。それがまっすぐの姿勢なんだ。
そのまま手をあげて、壁に沿わせながらゆっくり下げていく。それがいい姿勢なんだ。それを時々やって、姿勢を矯正するんだ。

それから、椅子に座る時も座面の一番後ろまで腰かけて座ると姿勢が良くなる。椅子の背もたれは直角なのが一番いいね。

小川:試してみます。




―健康の秘訣 マッサージ ―



小川:もう一つの健康に気をつけていることは何でしょう?

野内さん:かなり疲れた場合はマッサージを大事にしている。月に一回は必ずマッサージをやっているね。

百姓だから鍬使ったり重労働だったのが40歳頃に会社を作ったから、会社に行ってデスクワークになったら体力がなくなってしまった。
それからマッサージにかかっているけれども非常に健康にいい。

小川:お店に通っているんですか?

野内さん:家に来てもらっているんだ。

無駄な部分的な疲労感がたまる場合が多いんで、なおさらマッサージが必要で疲労を分散させないといけない。それを気がつかないで、放っておくから、それが麻痺しちゃう。

だから東洋医学は今になってね、見直されているんだよね。
マッサージの重要性は話すんだけど、なかなか理解して貰えない。
マッサージっていうのは本当に大事で、医者よりマッサージが大事だと思っているんだ。マッサージで治んなかったら医者にいく。

小川:マッサージが重要だと実感した体験とかってあります?

野内さん:長年悩んでいた口内炎がマッサージで治ったね。

健康を維持するために副腎皮質というものがあって、人はどこか悪いと副腎皮質が抗体を作るんだ。
マッサージ師さんにあなたは副腎皮質が鈍ってんだって言われ、その副腎機能を機能を呼び覚ますマッサージしてくれたんだ。

そしたら、マッサージによって口内炎の痛みがなくなっちゃった。
15年間くらい苦しんだのに、それをやって、もう何十年も口内炎ができなくなった。
どうやら副腎皮質も機能回復しちゃってる。これは医者はできない。

小川:それは興味深い話です。

野内さん:人ってのは、やっぱり自分の持って生まれた機能をいつでも発揮できるような状態にしないと駄目なんだ。

それは医者ができない。
みんな薬をくれるから、外部からもらえるから自分の機能が鈍っちゃう。
その機能を呼び覚ますのはやっぱり東洋医学だと思う。




―歓藍社のはじまりー


小川:歓藍社の話を聞きたいと思うんですけど、歓藍社はどういった活動をされていますか?

野内さん:歓藍社は藍を栽培し、藍染めをやって、楽しもうというのがスタート。
楽しんで、交流を深めようというのが基本的なもので、そういうものは地方と中央との接点になるだろうと考えた。

これを始めたのは、あの当時、林剛平さんと佐藤健吾さん、渡辺崇徳さん。

小川:佐藤健吾さんは大玉村地域おこし協力隊のOBですね。林剛平さんは歓藍社の代表者だと思いますが、きっかけはあったのでしょうか?

野内さん:林さんは放射能の研究で来ていて、俺の田んぼの稲を自分の論文の中に書くために6年間、通っていたんだ。大玉村に毎月ね。

苗を植えて苗の成長を観察する。
それから苗の中、土壌の放射能の値を測って、その変化を観察したのね。
だからあの当時国で研究研究したものと、もうほとんど並行でやっていた。放射能がどう稲から米の中に移動するそういう観察をしていた。
彼は、その観察の中で、移動はあまりしないということがわかった。

研究が終わって、次は何をしようかっていう話が出て、話し合いの中で藍を育てようと。

うちの母親も俺が子供の頃、藍の話はよくしていたんだ。昔は自分で染めていた時期もあったからね。
それともう一つは藍色っていうのはイメージするのは智恵子抄なんだよね。
本当の空に藍、青が出てくるだけで、それをイメージしてじゃあそれでいいかと。

それがきっかけで、彼がメンバーを集めて始まったんだ。





―歓藍社のこれからー



小川:2018年に佐藤健吾さんも含めて祭りをやってたりしていましたが、やはりコロナの影響で外から来られなくなっているっていう感じですかね。

野内さん:コロナでストップしてしまったな。昔は毎月してたんだ。
力を入れていた人達がみんなその間活動休止してから来ないからね。

小川:今後の活動としては、どういった感じの活動になるんですか。

野内さん:今までと特に変わりはないんだけれども、
染め場が完全にできてれば常時お客にきてもらって、染めてもらえる。

小川:染め場はロコハウスですよね。

まだ藍染はやったことないので機会があればやりたいなと思います。

野内さん:実際に藍染をやってみると、だんだん色が変化していく。
染め始めは黄色いんだよ。それを干していくとだんだん藍色に変わっていく。化学反応だね。

藍の原料によって、本当に濃い色にも染められる。
なかなかいい原料を作るっていうのは大変なんだよ。

藍の茎が入るほど、色が薄まってしまうんだな。
藍の葉っぱだけ取りだすのが大切だけど、それがものすごい大変な作業で難しいんだよ。

葉と茎をどれぐらい分離できるかっていうその技術なんだよ。

小川:2年前、私も収穫する時に手伝いに行かせてもらいました。
収穫した藍を粉砕機に入れて飛ばす。
それを集めてビニールハウスで平たく並べるところまでやらせてもらいました。

野内さん:あの分離方法ね。去年から収穫の方法も工夫して、収穫しやすくなった。茎が太い方を前にして粉砕機に入れると、硬くて重い茎が遠くまで飛ばすことができるとかね。

小川:今は何反歩ぐらい作っているんですか?

野内さん:今は1反歩で作られてるんです。

小川:1反歩でどれくらいの染料ができるんですか?

野内さん:乾燥して発酵してると100キロぐらい取れるかな。

小川:今藍染って言っても化学染料だったりとか、いろんなやり方がある思いますが、歓藍社で作ってる藍っていうのは、伝統的な昔からの染料なんですよね。

これから大玉村で気軽に藍染ができるようになったらとても良い文化になると思います。






―ヒコハウスとピアノー


小川:野内さんといえば音楽のイメージが強いです。

去年、ヒコハウスで演奏会やっていたのを拝見させていただきましたが、素晴らしい演奏会でした。

音楽はずっと続けてるのでしょうか?

野内さん:合唱は、学生時代から。
高校生になって合唱団を作って、混声合唱をやっていた。

合唱っていうのは一人で歌うよりも非常に楽しい。色んな和音ができて。
合唱はもう70年以上歌っているね。

小川:ヒコハウスにはピアノがありますよね。

野内さん:あれはヒコハウスに6年くらい住んだ方が置いて行ったものなんだ。
彼は二本松の工場で働いていたんだが、アパートに引っ越さなければいけなくなったときに、ピアノが置けない。
それで知り合いと一緒にうちを訪ねてきたんだ。
四六時中、ピアノを弾いてもいいと言って、ここに住んだ。

小川:そうだったんですね。

野内さん:音楽好きはわかるんだな。音楽についてはすごく関心があるから、音楽の知り合いが多いんだ。
彼は今度は千葉に帰ってたんだけれど、ピアノを向こうに持っていくと、周りが住宅団地でもっていかれない。それで置いてくれということになったんだ。

彼がいるうちも、演奏会を何回も開いているんだ。
このスタインウェイというピアノがあるために音楽が好きな人はここで演奏したいという人が結構いたんだ。

小川:これまで演奏会をたくさんやってきたと思いますが、そういった音楽好きな人たちのコミュニティのつながりがあるんですね。

野内さん:ここで演奏した人の中でも有名な人も結構いるよ。
特に、今年のBSでウィーンフィルの演奏会やったけど、そん時の解説でやったのがナオキさん。彼はここで講演を3回している。
彼はウィーンフィルの中でも非常に重要なポストになってる。

小川:そんなすごい方も来られているんですね。

野内さん:演奏会は何十年もやっているけど、楽しいからやれているね。
それに喜んで来てくれる人がいっぱいいるから。

それが楽しくてね。
地方で素晴らしい演奏会を聴ける。

小川:ヒコハウスはとても趣のある建物ですし、少し歩けば大玉村の美しい田園風景があります。このようなところで聴く音楽はまたいいですね。

野内さん:この日の風景を見てきれいだなって。ただ、音楽聴くだけじゃなくて、その音楽を通じて集まることによって色んなものを知ってもらうという、そういう世界を大げさでなくてもやれたらと。




―大玉村と歌―

小川:野内さんにとって大玉村は?

野内さん:もうとにかく長いことここに住んできたんだけれども、安達太良山の風景の中で色んな風景を見て、
朝日に照らされる、夕日に浮かび上がる安達太良山の風景で随分励まされてきたという想いはあるね。

こんなに美しい風景は日本中にないと思う。
それにもかかわらず、今、なぜ歌に詠まれなかったのか。
今でこそ美しい風景だと感動する声があるけど。

小川:安達太良山の歌って思いつかないですね。

野内さん:智恵子抄が出てきたけれども、向こうの二本松から見た安達太良山の風景で本当のバランスのいいというのは大玉村からの風景。

ここで読む人がいなかったというのが不思議に思う。

これだけの風景を見て、歌心がなぜ湧かなかったのか。

安達中学校(現安達高等学校)の校歌っていうのは安達太良山を歌った校歌なんだけども。
しかし、安達太良山を歌うのは荒々しいという感じなんだろうね。

だから、中学生の希望を歌うためにはああいう複雑な方言、そして高い荒々しい山。そういうものを歌ったほうが、少年たちに希望を掻き立ているのかなっていう感じで、校歌を歌っていたな。




―大玉村とその先に―

野内さん:大玉村はお米の産地で、農業やるにしては稲作をどうしていくべきかをずっと考えてきた。
ただ、今になってお米の需要は変わったけれども、この自然環境の中で何をどう取り上げるか。

それから米はやっぱり米の独特なよさをどう知ってもらうかが非常に大事になる。
美味しさには変わりないんだから。
ところが、別の県は、宣伝がうまくてね。
もっと宣伝の仕方を考えなくてはいけないね。

人との交流の中で、外部の人たちが大玉村に来て何を得られるか、どういう感性を得られるか、大玉村に住む人たちの魅力を伝えられるか。

そういうものは同じ活動を通じて知り合わないとなかなか生まれない。

だから勧藍社がそういうわずかな窓口にでもなって、交流ができて、人間的な魅力、神秘的な風景の魅力、自然の産物の魅力。

そういうのが増えていけば、自然にそういう交流ができて人間的な交流もあるし、生産物の交流もできるんだ。





対談を終えて


ラスト(第5回目)は野内彦太郎さんと対談させていただきました。
野内彦太郎さんはこれまでヒコハウスで演奏会や、歓藍社の活動を通して村内外の方々と広く交流を持ってきました。

私自身、大学の先輩が歓藍社に所属しており、何やら面白そうなことをしているなと学生の頃から見ていました。

実際に大玉村に移住してからもちょくちょく活動の方を見させていただいてきました。

中でも野内さんはとても博識で、これまで多くのことをやってきた話をお聞き、多角的に大玉村を見られている野内さんがこの「大玉村が映し出す姿」のラストとしてふさわしいと考えました。

対談では戦前戦後の少年時代からこれまで活動してきたお話を聞かせてもらいました。

また、野内さんに安達太良山が美しくみえる大玉村の風景の素晴らしさを教えてもらいました。

そして、この風景は大玉村の方々が先祖代々行ってきた農業によって時代は変化していきますが、守られてきたのだと感じました。

大玉村は人口が増えている珍しい地域です。
これは時代に対応し、変化してきた結果であると思います。

変わらずに受け継いでいくもの、時代とともに変化していくもの
その双方のバランスはとても大切なのだろうと改めて考えさせられました。


最後に、これまで5回を通して「大玉村が映し出す姿」と題して行ってきたおおたまいどばた会議ですが、私自身、大玉村を深く知るいい機会になりました。

今回対談できなかった方々も魅力的なエピソードがあると思いますので、またの機会にお話を聞かせてもらえばと思います。

ありがとうございました。